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The Golden Compass ライラの冒険/黄金の羅針盤

アメリカ映画 (2007)

チャーリー・ロウ(Charlie Rowe)が、小さな役で出演しているファンタジー超大作。フィリップ・プルマン(Philip Nicholas Outram Pullman)原作の『ライラの冒険(His Dark Materials)』3部作の第1部を映画化したもの。1.8億ドルと言われる制作費は2007年の段階では史上最高、もしくは、それに近い額とされる。最終的な興行成績は全世界で3.7億ドル(制作費の倍)、しかし、そのうちアメリカ国内だけでは18.8%の0.7億ドルしか得られていない。つまり制作費の4割しか国内で回収できていない。20%を割るというのは異例の数値で、そのため3部作でありながら続編が作られなかった。その背景として、①アメリカの「宗教と市民の権利を守るためのカトリック教徒の連盟」からの執拗なボイコット運動のため興行成績がふるわなかった、②監督クリス・ワイツ(Chris Weitz)によるプロデューサー批判(干渉が多すぎ、エンディングも変えられ無念だった)、③RottenTomatoesで42%と批評家の受けが悪かった、などの理由が挙げられている。私の意見では、責任の第一は、監督と脚本を兼ねたクリス・ワイツにある。2002年に駄作の『天国からきたチャンピオン 2002』と秀作『アバウト・ア・ボーイ』の2本を監督しただけの人物が、いきなりファンタジー超大作の監督を任される。人選をした映画会社にも責任はあるが、自分の能力をわきまえず引き受けて映画を破綻させたクリス・ワイツの罪は重い。公開後3年半後にBox Office Prophetsに書かれた記事では、映画に対する批評家の意見は総合して、「味気なく、つぎだらけで、壊滅的な失敗」だったとしている。そもそも、これだけの大作を僅か113分の映画にしたところに脚本のミスがある。粗筋を追っただけの稚拙な脚本で、名作と誉れ高い原作の世界が安っぽく踏みにじられてしまった。2009年12月の制作会社による続編制作の断念は、ある意味では正しかったのかもしれない。『ライラの冒険』の第3部は映画化不可能なほど複雑で現実世界から乖離しており、この人材では対応不可能だったと思われるからである。このコメントを書くにあたり、3部作を改めて読み直してみて、強くそう感じた。

『ライラの冒険/黄金の羅針盤』は、高く評価されたファンタジー小説の中でも、最も独創的で、空想的、かつ、宗教的な意味合いを強く持った作品である。邦訳でダイモンと訳されているライラの世界の誰もが持つ守護精霊(dæmon/diːmən)は、悪魔(demon/díːmən)と発音が同じである。これは第2部の現実世界で主人公のウィルに、そう発言させているので、意図的かつ寓意的なものであろう。さらに、ライラの世界以外の平行世界すべて共通する重要な物質ダスト(dust)は、普通に訳せば塵であるが、第1部と第2部では “原罪”、第3部ではライラとウィルの結合により “原罪からの解放” を表している。こうした難解な状況下で、ライラが真理計の扱い方をマスターし、“将来の世界を変える予言の少女” として異世界へと入るまでを描くのが第1部である。チャーリー・ロウが演じるビリーは、原作では名前だけの小さな端役、映画では、原作のトニーとビリーを足したような小さな役で、6回しか登場しない。従って、あらすじでは、登場場面だけに限定して紹介しよう。

チャーリー・ロウの子役3作の中で、最初の作品が本作である。ファンタジーであること、悪戯っ子であること、魂を抜かれるところなど、最後のピーター・パン役にかなり近い。


あらすじ

映画の冒頭。原作を読んでいない観客用に、誤解を招きやすい2つの言葉である “ダイモン” と “ダスト”、それに、隠れた主役でもある “真理計” について簡単な説明がある。簡単過ぎて、多くの批評家には理解できなかったのも不評の一因であろう。冒頭解説に続き、すぐにライラとビリーが登場する。貧しい子供が突然消えてしまうことから、子供を誘拐する不明の集団をGobbler(ゴブラー/がつがつ食べる人)と名付けて怖れるとともに、そうした被害の及んでないオックスフォードでは、子供達がゴブラーごっこをして遊んでいる。逃げるのは、大学の調理場の下働きのロジャー、追いかけるのはビリーを先頭にジプシャンの子供達。「捕まるもんか」とロジャー。「捕まえるぞ」とビリー。「邪魔してやる」とライラ。つまづいて転んだロジャーに、「僕らはゴブラーだ、覚悟するんだな」とビリー。泥のつぶてを投げてロジャーを助けるライラ。ライラは、オックスフォードのジョーダン学寮に客分の身分で預けられた12才の少女、下働きのロジャーとは身分違いだが、遊び友達だ。一方の、ビリーは、その地域のジプシャンを統括するマ・コスタの息子だ。寮の門の所までロジャーと一緒に逃げて来たライラが、「止まって! 命が惜しけりゃ、ここまでよ」と命令する。「何でさ? 正々堂々と戦えよ」とビリー。「そうじゃないの、ビリー・コスタ。この門のこと知らないの?」。「君のつまらない学寮の裏門じゃないか」。「呪いがかかってるの。ジプシャンなら知ってないと」。「君は何で平気なんだ?」。「ここの住民だから、安全に通れるの。それに、呪いをかけたのは、私の母さんだしね」。「母さん? 孤児なんだろ? 叔父さんにだって、邪魔扱いで学寮に預けられてる」。「侵入者用に特別な鎧があって、着せられると焼け死ぬのよ」。「アホらしい。ロジャーを渡せよ」。「嘘じゃない。証明するため盗んでくるわ。着るんなら、ロジャーを渡したげる」。「分かった。今夜持って来いよ。じゃなかったら…」。「戦争よ」。2人が握手する。
  
  

ライラが、学寮の晩餐会に呼ばれ、「今夜持って来いよ」の約束が反故にされた夜、ビリーと、伝言係のロジャーが学寮裏口への通路を一緒に歩いている。ビリー:「約束は約束だ。ライラは現れるべきなんだ」。ロジャー:「外出禁止になったって、言ったろ」。「ライラの部屋、どれだ?」。「どうする気だい?」。「驚かしてやるのさ」。「見つかったら、僕、生皮をはがれちゃうよ」。「ラッター、危険がないか見て来い」。ラッターは、ビリーのダイモンだ。誰もいないはずが、急に、コスター夫人のダイモンが現れ、ラッターを羽交い絞めにし、ダイモンと感覚を共有するビリーも身動きできなくなる。こうして、ビリーとロジャーは、ゴブラーに拉致される。コスター夫人は、総献身評議会(ゴブラー)のトップにして、陰謀家、絶世の美人、ライラの(隠れた)実の母、第3部の最後まで敵か味方か分からない複雑で魅力的な人物だ。
  
  

この映画は、アカデミー視覚効果賞を受賞したが、1枚目の写真は、ライラの世界のロンドン。一見、蒸気機関車が走ったりしてそれらしいのだが(鉄道橋の位置は、現在ミレニアム橋の架かっている場所)、その右に、本来もっと離れているはずの30セント・メリー・アクス(葉巻型のガラス張りビル、赤い)がワザと入れてあるのは、お遊びとはいえ、時代錯誤もはなはだしい。一方、2枚目の不思議なデザインと動力で走る自動車(?)のアイディアは高く評価できる。
  
  

次のシーンは、ビリーとは関係がないが、この映画で一番重要な真理計について、ライラが、使い方を知らないなりに、初めて動かしてみる重要な場面。動かせるのは3本の針で、訊きたい質問を3つにまとめ、それぞれを代弁するような盤面のシンボルに針を合わせると、もう1本の青い針が何度も自在に回転し、何ヶ所かのシンボルのところで、何回目かに一瞬停止する。シンボルの持つ何通りもの意味と、その組合せから、どんな質問に対しても真実を教えてくれる。ただ、それを扱える人は皆無に近い。しかし、ライラは、直感的に使い方をマスターする。さらわれた子供たちの行方が知りたいというジプシャンの統領の希望に対し、ライラが、蛇(1枚目の写真)、鍋、赤ちゃんのシンボルを指定すると、青い針が回転し、頭の中では金色のダストで砂時計の形になり(2枚目の写真)、針は2周目で砂時計のシンボルで停止した。砂時計の上には小さな頭蓋骨、死の象徴が載っている(1枚目の写真で、蛇の2つ右)。
  
  

そして、場面は、そのまま、北極に近いボンバルガー(邪悪の原)に立てられたゴブラーの実験基地へと移行する。一室に集められた子供たちの中に、ビリーとロジャーもいる。女性スタッフが、「はい、手紙を書くのはそこまで」と言い、見回っていると、ビリーは何も書いていない。「ビリー・コスタ、なぜ何も書かないの? お母さん、すごく寂しがってるのに」。「何を書いたらいいか分からないよ。ここに連れて来られたワケ、教えてくれないもん」。「私たちの手伝い。終わったら、すぐに帰してあげるから。そう書いてね。ジプシャンの子供たちは書き方を教わってないの?」。「事実を書けって教わったよ」。筋を通し、反抗的なところはビリーらしい。
  
  

それから、かなり後のシーン。ジプシャンの一行が、北極熊のイオレク・バーニソンを味方に引き入れ、ボンバルガーに向かう途中、ライラは真理計の指示に従い、熊のイオレクに乗せてもらい、雪原の真ん中に立つ小屋に向かう。そこに、“何か恐ろしいもの” がいるのだ。恐る恐る小屋に入って行くライラ。そこで見つけたのは、変わり果てたビリーだった。ゴブラーによって、強制的にダイモンと切り離されたため、生きる意志を失い、廃人と化した哀れなビリー。口にするのは、「僕のラッターはどこ? 見なかった?」「ラッターがいない」だけ。「ビリー、ライラよ。ママの所へ連れていくわね。一緒に来て。そこなら安全よ。ラッターを見つけるから」とライラ。
  
  

ビリーを熊に乗せ、ジプシャンのテントに戻ったライラ。「ライラ、何を見つけたんだね?」。「ビリーよ。ビリー・コスタ」。魂の抜けたようなビリー。母に抱かれるが、意識は朦朧としている(映画では語られないが、原作ではすぐに息を引き取る)
  
  

これでビリーの登場場面はないが、エンディングに近い2枚の写真を紹介しよう。1枚目は、ボンバルガーに単身乗り込んだライラが、捕らわれていた子供たちを解放する英雄的なシーン。2枚目は映画の本当のラスト。気球に乗って、叔父(実は、父)のアスリエル卿に会いに極北のスバールバルを目指すところで終わる。原作の第1部は、アスリエル卿との再会から異世界への侵入で終わるのだが、その前でカットされて、中途半端に終わっている。はっきり言って、これほどお粗末な脚本は見たことがない。原作に失礼なこと、この上もない。将来、もっとまともな監督、脚本家、プロデューサーを得て、1~3部が一括して映画化されることを期待したい。
  
  

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